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第10回 300年の伝統水泡に帰す

〜 風間新太郎の私見30 〜

 私の親父の生き方は、「カニは、甲羅に似せて穴を掘る」というものだった。
自分の「力以上に背伸びして、無理して、欲張りなさんな」という人生哲学だ。しかし、19才でこの家業を継いだときには、敗戦で仕事場も無く、0(ゼロ)からのスタートで、未亡人となった祖母と幼い弟、妹達5人を食べさせるのに、相当無理をして頑張ったはずだ。

 20才代で船橋鳶職組合の組合長を連続して務めたあと、残念ながら、鳶職に発展の余地が少ないと見切りをつけ、現在の「株式会社 風間建設工業所」を起業し、公共工事へと転進し、30才代は、常に東京の大手企業との戦いで、風間の地盤を広げ、40才代で早くも「船橋建設業協同組合」、今でいう「悪玉談合組織」の会長になり、京葉道路の建設でも、東京湾の埋め立てでも、船橋の仕事をやりたいなら風間のところに行って、工区を割り振ってもらうしかないと、清水・大成・大林などの談合担当役員が我ボロ家に連日押しかけてきたのを小学生だった私は、今も不思議な光景として覚えているが、何故か父の車はブルーバード、家は事務所兼自宅という40坪そこそこの狭い家。

 友達は、みんな自転車を買ってもらっているのに、買ってくれと言っても、「足があるだろ!」とばかりに黙殺され、贅沢は一切させてくれなかった。
口に出して、男はこうするものだと説明してくれるような親父ではなかったが、生き様で「新太郎、自分の力で生きろ。人に助けてもらおうと思うなよ」と教えてくれたと思う。

 今から15年前、私が36才、父が66才の時、突然の他界により、自分は創立39年目の会社と社員25名、下請30社の経営トップになった。どうしたらよいか、不安でいっぱいのはずだと思っていたが、事実、大変は大変だった。

 親父の残していった遺産は、バブルの絶頂の相続税だけではなく、20年以上も業界に君臨して来たボス亡き後をねらう、ライバル業者からの挑戦を受けてたって勝ち抜く事と、社内では、あまり働かなくて、私の言うことには心底から服従することなど出来るはずのない叔父さんたちをどう扱っていくかなど…。いろいろ迷い、眠れない日々が続いた。

 そんなある日、父の机を片付けていると、一枚の紙が出てきた。

「書き置きのこと」

小さい文字で自分の人生を振り返る文章が書かれていた。その中の一文が「カニは甲羅に似せて穴を掘る」
決して自分の実力以上の仕事に手を出すなという教えだった。

 今年、ちょうど創業300年を迎えた、伊勢の銘菓「赤福」。
関西のどこの駅でもデパートでも、最近は船橋東武でも買うことが出来るが、急激な販路拡大は無理があったのだろう。
雪印、白い恋人に続いてまた一つ…

 ちょっと余談だけど、この伊勢の隣の松阪には「和田金」がある。松阪に行かないと、和田金のスキヤキは食べられない。
極上の肉を選りすぐって、目の前で料理してくれる。連日、お客様が絶えない。こんなに人気があるなら、銀座辺りに出店しても…と思うが、出さない。「赤福」とは対照的だ。翻って、私も自分の会社経営能力を過信せず、今、10の力があるな、出来るなと思ったら、その半分ぐらいに抑えていく必要があると、今回の事件から学んだ。

 一歩一歩着実に。

2007.10.15  風間 新太郎

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