歴史
株式会社風間建設工業所は1925年(大正14年)に創業し、九十余年地域の皆様と共に歩んでまいりました。
時代の変化に対応しながら、常に皆様のお役に立つ企業を目指してきたその歩みをご紹介します。
1925年(大正14年)、風間竹次郎が船橋町九日市にて鳶請負業「鳶竹」を創業。県立船橋高等学校建設や海老川護岸堤防に取り組む一方、町火消しとして活躍しました。
千葉県立船橋高等学校の建設時は、戦争が激しくなり資材不足から大変苦労をしたそうですが、請け負った仕事は絶対弱音をはかずという請負人根性を貫き通し、昭和20年無事完成しました。
1943年(昭和18年)、竹次郎の急死により、まだ18歳であった風間茂が復員し、鳶竹の二代目頭領となる。竹次郎が手掛けていた工事は全て完成させ、後の風間建設工業所設立の礎を築きました。
当時暴れ川と呼ばれ台風のたびに船橋市本町、宮本町などの中心部を水浸しにしていた海老川の治水工事。難工事でしたがこの工区は特に優良と千葉県土木部より優良工事表彰を受賞しました。
今は船取線とか我孫子線と呼ばれる渋滞の多いこの道路ですが、1970年頃当社が着手した当時は行き止まり道でした。山を削り田んぼを埋め開通させた努力は時の友納知事より優良工事の表彰をいただいた思い出の多い道です。
1960年(昭和35年)に当時市内業者で最大の資材センターを取得しました。船橋運動公園の500mほど先の右側にある1500坪の資材センターは、地震や台風等の災害時の緊急出動の基地です。
1992年(平成4年)
前社長の急逝により三代目風間新太郎が36歳の若さで社長に就任。官民受注比率を就任時の9:1からお客様目線の経営により4:6に変えて安定経営路線を歩んでいます。
船橋市初の大型子供公園アンデルセン公園内に「ワンパク城」というシンボル施設を作りました。これは市のパンフレットですが写真の女の子は相談役の次女の彩です。
船橋大神宮では徳川家康公没後400年にあたり境内の東照宮を改修することになりました。2014年頃から私は「造営監修役」に選ばれ、当社は地元建設会社として大林組の施工を監督する役を任じられました。
当時の準大手ゼネコン間組と地元業者代表 風間建設とが、北と南からそれぞれ競い合って橋をかけていき当社が2ヶ月も速く完成させました。これが出来るまでラジオの交通情報で中野木交差点の渋滞は有名でしたが、この立体交差工事の完成で過去の伝説となりました。
地元船橋の前総理大臣野田さんを迎え、創立90週年を祝うパーティーを開催しました。記念講演会では380日間の国家元首としての外交や官邸内の緊張の模様が野田流に楽しく語られました。
2016年(平成28年)9月15日、風間家三代目経営者は社長を卒業しました。社長卒業式には270名を越す社員、下請会社、ご来賓の皆様、そして友人・知人が駆けつけて下さいました。
大正14年から続く風間建設に初めて風間家以外の一般社員出身の社長が誕生しました。社員として長く会社を見てきた経験を生かし、社員一丸お客様により良い品質の建造物を作る決意に溢れています。
新たな発想で安定経営の基盤作りに挑み、社員の安心生活とお客様へ期待以上のお返しが出来るよう取り組みます。
風間の伝統
「鳶職」の名の由来は、その用具の「鳶口」を巧みに使う人に由来します。
「鳶口」は、木材の山出しや木場での寄木、土建工事に必要な道具であるとともに一方、消火栓や消防ポンプのなかった時代の主要な消防用具でもありました。元禄の時代、江戸では、町方の火消しを鳶職人達が請け負っていました。そのやり方は火を消すと言うより家を壊し延焼を食い止めるという乱暴な作業でしたが燃えさかる火事場に飛び込み危険な消火を行う為、鳶職の仲間は、自然に頭を中心として強い団結意識を作り縄張りの町内を守っていたのです。
大正14年、千葉県船橋町九日市の漁師町にある「通称」寺町において、鳶職の頭領 風間竹次郎を中心として請負業「鳶竹」が組織されました。鳶竹は、昭和29年二代目風間茂により改組され株式会社風間建設工業所になるまで鳶職としての意地や心意気、我慢を貫き通し、暴れ川と言われた海老川の護岸改良や木材不足の中での県立船橋高等学校の建築工事の請負など、数々の難工事を完成していきました。創業から90年余りたった今も社風として受け継がれ「困っている人を助ける。」「弱音をはかず痩せ我慢を通す。」「楽な道と損な道なら、損な道を行く」これら鳶職としての心意気は、現在の風間建設の精神的基盤として受け継がれているのです。